全部冗談
著者・こうちゃん
「この象、なんか動いてない?」
きっかけは井口さんのこの一言だった。

「プッ」
私は笑ってしまった。堅物の井口さんが、象を模した椅子を、ちゃんと象と認識して見ていたことが可笑しかった。井口さんに睨まれる。私は肩を下げて、低い背をさらに低く見えるように、ワザとシュンとなる。
周りの先輩達が大丈夫?井口さんこわーい、と私を守ってくれる。先輩達は井口さんを嫌っているわけではない。全部冗談。怖い先輩に標的にされた可愛い後輩を守る優しい私たちを演じているだけなのだ。仕事は退屈でつまらない。退屈な日常を色付けるエッセンスなのだ、これは。
「はいはい、良いから良いから。で、実際問題、昨日よりずれてない? これじゃお客さん、ここ通る時ぶつかっちゃうわよねぇ」
この図書館には、縦に並ぶ各棚の一番通路側に、ちょっと座って本が読めるような椅子が置いてある。それがずれていたのだ。
犯人探しが始まった。まず昨日の閉館時にいた司書達に聞き取りがされた。
ちゃんと見回りはしたか?その時、ここの椅子はずれていたのか、と。
昨日働いていたものたちは誰も何も知らないという。この図書館は、大きな団地の中にあり、団地サイドに警備員が常駐している。そこで、管轄の違うその警備員にまで、連絡を取り、不審なことはなかったか、聞くことになった。
来た警備員は20代後半の塩顔イケメン。女性の多い職場である図書館司書達は、事件そっちのけで色めき立つ。
「はいはい、静かに。それで警備員さん、昨日何か変なことあった?」
髪を触る回数が明らかに増え、人のことを言えない井口さんが、先陣切って聞く。
「いえ、先程昨日の担当者にも確認をとってみましたが、何もなかったと」
お腹に響いてくる低音。さらに色めき立つ。井口さんなんか、目をキラッキラさせている。
とはいえ、事件は振り出しに戻った。進退極まった司書達は、開館前の図書館ホールで頭を捻っていた。
と、そこで誰かが
「防犯カメラを見れば良いんじゃないですか?」
と言った。
全員が息を呑む音がホールに響く。
「それだわっ!」
井口さんがバッと立ち上がる。動き出そうとする井口さんの手を私は掴む。
「もう良いじゃありませんか。こんなことに時間を使わなくとも。直せば良いだけの話ですよ」
私は諭すように言う。井口さんは不祥不詳そうに座る。誰もが井口さんを見つめている。
「ま、そうね。仕事を始めましょうか」
と言って、両手をパンパン叩いた。
全部エッセンス。冗談は冗談のままに。