土俵際のおじさん
空が白みはじめたばかりの相撲部屋では朝稽古が行われています。ドシンとぶつかり合う音や、ピシャンと肌を打つ音が響き渡ります。
親方が朝の稽古を終えようとした時、誰かが入口の戸を叩きました。戸を開けると、カバンを手にしたスーツ姿のおじさんが立っています。
「私を弟子にしていただけませんでしょうか?」
おじさんは額の汗を拭うと、親方に名刺を差し出します。
「その年齢ではちょっと難しいかもしれないなぁ」
「私は三十年間サラリーマンとして一日も休まず通勤しました。ですが、いつも満員電車から押し出されてしまい悔しい思いをしてきたんです。私は満員電車から押し出されないくらい強くなりたいんです」
おじさんは眼鏡越しに親方をまっすぐ見つめます。
「生半可な気持ちではやっていけないぞ、覚悟はあるのか?」
親方の言葉に、おじさんは力強くうなずきます。
「よし、弟子にしてやろう」
それから、おじさんは毎日稽古に励みました。髪の毛の少ないおじさんは髷を結うことはできませんでしたが、まわし姿はさまになってきました。
「よし、今日は取り組みの稽古だ。朝野関、相手してやってくれ」
親方がそう言うと、柱に向かってバシバシと張り手を浴びせていた巨漢の朝野関は手を止めて、おじさんとの取り組みに備えます。おじさんは、土俵に向かいながら顔を叩いて気合いを入れます。
立ち合いです。
「はっけよ~い、のこった!」
おじさんは手を着くとさっと飛び上がり、朝野関の顔の前で両手をパチンを叩きます。ところが、朝野関は動じません。逆に、おじさんは朝野関の強烈な張り手を顔面に食らってしまうと、土俵際でうずくまってしまいます。どうやら顎が外れてしまったようです。
さわやかな秋晴れの日、チヒロちゃんは電車に乗って買い物に出かけます。隣の駅に着いた時、顔に包帯を巻いたおじさんが乗ってきました。チヒロちゃんが席を譲ると、おじさんの目には薄っすらと涙が光っていました。
デラシネ書館
藤岡真衣