霧の島
船頭が漕ぐ船は、霧の中を進みます。
チヒロちゃんは赤く染まった手を口元にやり、息を吹きかけます。岸辺には、綺麗な鱗の小獣がいます。小獣は地面に腹をつけ、薄く開けた目で、真冬の河を眺めています。
祭囃子の音が聞こえ、小獣の耳が微かに動きます。船が岸に着くと、小獣は霧の中へ消えてゆきました。チヒロちゃんは船から降りて、小獣の足跡をたどります。
小獣の足跡は、大きなクスノキの下へ続きます。クスノキの下は、人々の熱気に包まれています。チヒロちゃんは立ち止まり、霧の向こうの嬌声に耳を傾けます。土埃をあげて駆け回る子どもたちの笑い声、空気を震わす三味線の音、護符を売る老人の擦れた声。
チヒロちゃんは肩を叩かれ、振り向きました。
リンゴのような頬をした女の子が、チヒロちゃんに一枚の小さな鱗を差し出します。
「ヤヒロちゃん」
どこからか声が聞こえ、女の子は濃い霧の向こうへ去ってゆきました。
「発車の時刻ですよ、急いでください」
船の搭乗口に立つ、乗務員の男が言いました。
チヒロちゃんが船に飛び乗ると、エンジン音が鳴り響きます。発車のアナウンスが流れ、船はゆっくりと進み出します。
霧はすっかり晴れて、向こう岸ではオレンジ色のネオンが眩しく光っています。乗務員の男はアナウンスを終えると、あくびをして携帯の画面をのぞきます。
冷たい風が吹き、チヒロちゃんはポケットにしまった鱗を握りしめました。
向島 デラシネ書館
藤岡真衣