迸り
著者・林 光太郎
滲んだ地面。反射した水溜まりを彩る光を急ぐ足がかき消す。居酒屋から逃げ出した僕らは走る。走る。走る。
「あっ傘…」
立ち止まり後ろを振り向いた彼女の手を取り、無理やり前を向かせる。
「せめてコンビニで…買ってよ…大変だから」
覚悟を決めたような彼女は俯き、乱れた前髪が覆い隠す奥からまっすぐ見つめてきて言う。
関係ない。君を思って…走る、走る。

明治通り沿い、居酒屋。俺ら工学部の同期同士は、新学期の始まりを祝して酒を重ねていた。
「デザインの子、近くで飲んでるらしいから呼んでいい?」
同期一遊んでるやつが、みんなに呼びかける。
男が大半の工学部にとって、可愛い子の多いデザイン学科の子達は憧れの的だ。酒に潰れたものもちらほらいる中、生き残っている男何人かが「呼べ呼ベー」と囃し立てる。
「あと5分で来るってさ」
まじで呼んだとは思っていなかった男たちは、露骨に色めき立つ。ほてった赤い顔を覚まそうと水をがぶ飲みするやつ、カバンをガサゴソ櫛を探り出しトイレに駆け込むやつ、、、僕はというと、帰る準備をし始めていた。
「おい、お前帰ろうとしてんのか。なんでだ?」
「男だけで飲むのが楽しかったからだよ」
「そんなカッコつけたこと言いやがって…ふんっ」
僕は首をガッチリロックされてしまう。
この場を離れることはできないと悟った僕は、騒ぐ奴らからは距離を置き一人ちびちびお酒を飲んでいた。
チャランポランチャラーン
いらっしゃいませー
「あ、いたいたー」
女性グループが来た。
「うぉー」
盛り上がる男たち。
こっちこっちー、と呼ばれた子から男たちの間に座っていく女性たち。
「何立ってんの。君もこっち座りなよ」
大きなビニール傘を持ち、立っている黒髪の子。
「いや、私は少し疲れたので…端にいます」
騒いでいた一同、やや静まる。そこへ女性グループのリーダー的な子が
「あーいいよいいよ。そこで」
と追い払う手の動きをした。
そこへ僕の首を掴んできたあいつが
「じゃあさーこいつの横行きなよー」
と僕の隣を指し示した。それで場は収まり、彼女は「すいません」と謝りながら、僕の横に座った。
無言な僕ら。周囲から隔絶されていくのがわかる。
気まずい!何か話さなければ、
「なんで来たの?」
一つ目にしては棘のある聞き方になってしまった。と申し訳なさから、彼女の顔をチラッと見ると、彼女がこっちをまっすぐ見つめ返してきていたので、驚いた。
「私、自分変えたくて大学入ったんです。だから美大諦めて、キラキラしてるって噂だったデザイン科入って…ただ一年目は何もできず、変われず終わっちゃった…。新学期からは変わるぞ!って、無理にお願いして、飲み会参加させてもらって…」
彼女は正座したズボンの太ももを両手でギュッと握りしめている。
重たい!一発目の会話にしては場が重くなってしまった。流れを変えよう。
「へー。そうなんだ。てか美術好きなんだ。何が好きなの?」
「そうですね。印象派の絵とか好きですかね」
「印象派ってよく聞くけどなんなの?」
会話を広げるために聞いてみる。
「見たものを印象だけで描き出した作風ですね。点描画とかもそれに当たるというか。印象派でいうとモネが好きですかね」
「モネも印象派なんだ。モネっていうとあの池のやつは知ってるけど、あれも印象派…?」
「睡蓮、ですね」
「徳島の美術館でモネの池を再現したっていう実際の池を見たけど、印象で描き出した作品を実際に落とし込んだっていうのはお門違いってこと…?」
「わかんないですけど、そういうことなんですかね?」
「じゃああれは…」
美術という話題で僕らは言葉を交わし続けた。
周りの音など聞こえない。二人だけの空間。僕は彼女という存在に安心し切っていた。これ以上飲むと、ヤバい…という量をとっくに超える酒を飲み、目の焦点がぼやけてきた。目をしばたたせ、正気を保とうとさまざまな場所に目線をやっていると、彼女はまだ正座でズボンの太ももあたりを両手でぎゅっと握っているのが、目に入った。
時間は経ち、かなり飲んだはず。何よりいろんな話をした。僕は君に心を許している。なのに、君は…
サワーを飲む彼女に気を使って、お茶は頼まなかったこと…彼女が取りやすいように料理の皿を近づけてあげたこと…。
彼女が少しでも居心地よく感じてくれるよう、工夫してきたことは全て無駄だったわけだ。
何もかもどうでもよくなった。
そう感じた時には、僕は彼女の腕を掴み、外に走り出していた。
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「ごめんごめん、君を変えたくて、連れ出したんだけどさ」
僕は今日初めて会ったばかりの彼女にタオルケットを渡す。
タオルケットを両肩にしかと抱き、肩震わす君。
僕は彼女に向かって言う。
「こんなことなるんなら買っとけば良かったんだけどな」
言い訳をぽつんと。
文/著者 プロフィール
