現実と空想の狭間で僕はキスをする
米を研ぐ。掻き回しすぎないように研ぐ。2、3回ほど行う。
ザルに移し、30分は放置する。待つ。退屈を感じる。
包丁を研ぐ。砥石に向かい、何回か、包丁を前後に動かす。刃先を触ってみる。チクッとした感覚の跡。赤い血の風船ができる。蛇口をひねり、水道水で洗う。
それでも時間は余る。
目の前にスマホが落ちている。僕はそのスマホに電話をかける。伝えたい。
スマホを忘れていることを。
目の前のスマホが振動しはじめる。軽快な音を奏でるスマホ。僕の頭の中は一瞬空っぽになる。
そうだ。忘れてるんだった。
この振動は誰にも届かない。
僕は諦め、スマホを掴もうとかがんだ。手が空を切る。
スマホはそこにはなかった。
はじめは軽い鬱症状だった。
「先生、鬱は治るんですか?」
精神科に通い始めたのが2年前。
先生に勧められて、田舎に引っ越してきたのが1年前。
この1年間、自分のためになるようなことをしてきた。植物を育て、自炊をして食に向き合い、川をボーっと眺める。
しかし鬱は治らず、全てにおいてやる気が起きない。今していることが、本当に自分でしていることなのか、他人がしていることを眺めているだけなのではないか、という気持ちになる。
そんなふわふわした生活を続けるうちに空想をするようになった。鬱による妄想とは違う。浮かんでは消える空想。
味噌を買い忘れていることに気づく。買い物に行かなければならない。
バスに乗る。
バスは進む。停車をする。
杖をついたおばあちゃんが乗ってきた。座席に座る背筋の伸びたおばあちゃんが席を譲ろうと立ち上がる。
「私次降りますから」
「私は次の次で降りますから。どうぞ。そのままで」
杖のおばあちゃんは断る。
「大丈夫ですよ。座ってください」
押し問答をしている。
背筋が伸びたおばあちゃんが
「なら座りませんか?」
と杖おばあちゃんの横に立っていた別のおばあちゃんに声をかける。
横のおばあちゃんは杖のおばあちゃんに
「ほんとうにいいんですか?」
と声をかける。
ドンドン
ドアがノックされている。我に帰る。
ドアを開けてあげる。
編集者をやっているという隣の家のおばさん。
仕事に行っているはずの時間なのにどうしたんだろう。訝しがっていると
「今日は土曜日よ」
察したおばさんが言う。曜日の感覚を忘れていることに気づく。
おばさんの言葉を無視して、台所へ向かうと
「あなたの書いたものは、きっと多くの人の心を打つわ。いや、打たせなきゃダメよ」
何かの拍子に文章を読まれた。それ以来、このおばさんはうちにやってくる。
無視すると
「ねぇ聞いてるの!!」
回り込んで、前に立ち塞がってきた。
おばさんの後ろには、夕日に照らされた障子が見える。
僕はおばさんの肩に手を回し、唇と唇を触れ合わせようとした。
おばさんはいなかった。僕は、研いだお米を前につんのめった。机に腰をぶつける。お米の周りで白く濁った水が揺れる。
「一人で何をやっているの?気色悪いわよ」
おばさんは入口からこちらを怪訝そうな顔で覗き込んでいた。