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【連載】隅田河鉄道 第二話「手のひらの切符」

2026年10月16日 最終更新日時 : 2026年10月16日 すみだノート

作:及川博勝

← 第一話「星の名前」

「手のひらの切符」

 翌日、恒一は昨夜、汽笛が聞こえた方へ歩いてみた。

 業平のあたりだった。

 押上からスカイツリーを横目に歩き、細い道をいくつか曲がる。昨夜、古川荘の窓から見たとき、音はたしかにこちらから流れてきた気がした。

 けれど、昼の町は何の変哲もなかった。

 車が通り、自転車が通り、配送のトラックが路地の角で少しだけ立ち往生している。

 この辺……かな。

 恒一は業平公園まで来て、ベンチに腰を下ろした。

 住宅地のなかにある公園だった。木々の葉が、昼の風にかすかに揺れている。遊具のそばでは、幼い子どもが母親のそばで遊んでいた。向かいには業平小学校の塀が見えた。

 汽笛の聞こえるような場所には、とても見えなかった。

 ふと、公園の隅に説明板があるのに気づいた。

 王貞治。

 墨田区で生まれた少年が、この公園で白い球を追いかけていたことが書かれていた。恒一はその前に立ち、しばらく文字を眺めた。

 ここで野球をしていた少年が、やがて誰もが知る選手になった。

 そんな当たり前のことが、少しだけ不思議に思えた。

 この町には、昔のことが、案外そのまま残っているのかもしれない。

 けれど、昨夜の汽笛につながるものは、何ひとつ見つからなかった。

 恒一は諦めて、古川荘へ戻った。

 午後は、アルバイトの面接だった。

 駅前のカフェで、店長らしい男と向かい合い、履歴書に書いた自分の名前をもう一度確認された。いつから働けるか。週に何日入れるか。接客の経験はあるか。

 恒一は、できるだけ普通に答えた。

 昨夜、蒸気機関車の汽笛を聞いたことも、昼間、存在しない線路を探していたことも、もちろん話さなかった。

 面接は、思っていたよりあっさり終わった。

 帰り道、店長から「来週、連絡します」と言われた。採用なのか、不採用なのか、よく分からない言い方だった。

 部屋に戻り、コンビニの弁当を食べた。

 夜になっても、汽笛のことが頭から離れなかった。

 結局、十時を過ぎたころ、恒一はまた業平へ向かった。

 夜の十時三十分。

 恒一は、業平公園と業平小学校のあいだにある一方通行の道に立っていた。

手のひらの切符

 一方通行にしては、少し広い道路だった。昼間は自転車や車が抜けていく、ごく普通の道にしか見えなかった。

 人影はない。

 公園の木々も、小学校の塀も、街灯の下で静かだった。

 道路の向こうから、一台の車が曲がってきた。ヘッドライトが細い道を白くなぞり、恒一の前をゆっくり通り過ぎていく。車が角を曲がって消えると、あたりはまた静かになった。

 そのとき、どこからか小さな声が聞こえた。

 最初は、近所のテレビの音かと思った。

 恒一は目を閉じ、耳を澄ませた。

 「まもなく、電車がまいります」

 え?

 恒一は勢いよく目を開けた。

 息を止めた。

 「駅……?」

 アスファルトの道は、いつのまにか低いホームになっていた。公園側には、古びた駅名標が立っていた。 

 新なりひら。

 ひらがなで書かれたその字が、夜のなかで白く浮かんでいた。

 腕時計を見ると、二十二時四十五分だった。

 遠くで、レールを踏む音がした。

 ガタン、ゴトン。

 昨夜聞いた重たい響きとは違う。もっと軽く、けれど古い音だった。やがて道の奥から、丸いヘッドライトが近づいてきた。

 先頭にいたのは、濃い茶色の電気機関車だった。

 「EF58……」

 鉄道に詳しいわけではない。それでも、どこかで写真を見た記憶があった。

 屋根から伸びたパンタグラフが、見えない架線に触れている。その後ろに、ぶどう色の客車が三両、静かに連なっていた。先頭の正面には、赤いヘッドマークがついている。

 ツツジ。

 白い文字が、そう読めた。

 「白線の内側にお下がりください」

 さっきの声より、少し大きなアナウンスが響く。

 列車は、道路だった場所へごく当たり前に入ってきた。

 ブレーキの音がして、恒一の前で止まる。

 ドアが開いた。

 客は数人だけだった。スーツ姿の男、買い物袋を下げた女、制服のまま眠そうな高校生。誰も驚いた様子を見せず、ホームを降りると、さっきまで道路だった方へ歩いていく。そして角を曲がった瞬間、夜の町に溶けるように見えなくなった。

 最後に、一人の男が降りてきた。

 五十代くらいだろうか。くたびれた紺色のシャツに、少し大きな鞄を提げている。顔は酒で赤く、足取りは頼りなかった。

 恒一は、気がつくと男に声をかけていた。

 「すみません」

 男が振り返った。

 「これ、いや、ここ……な、何ですか」

 言葉がうまく出てこなかった。

 「いや、なんていうか……」

 男は少しだけ眉をひそめ、それから不思議そうに笑った。

 「何って。駅でしょうよ」

 「駅」

 「切符なら、あっちだよ」

 男は、ホームの端を、顎で指した。

 「いや、そういうことじゃなくて」

 恒一が言いかけたとき、再びアナウンスが流れた。

 「まもなく二番線より、各駅停車、奥墨田行きが発車します」

 その声を聞いた瞬間、恒一の体が勝手に動いた。

 駅とは思えなかった。

 何が起きているのか、まったく分からなかった。

 それでも、行かなければならない気がした。

 改札の小さな窓には、年配の駅員が座っていた。紺色の制服を着て、古い時刻表のようなものを読んでいる。恒一が近づくと、駅員は顔を上げた。

 「どちらまで」

 恒一は一瞬、答えに詰まった。

 「ええと……きょ、京島まで」

 咄嗟に、知っている地名を口にしていた。

 駅員はうなずいた。

 「百九十円ね」

 恒一は財布から硬貨を出した。差し出す手が、少し震えていた。

 駅員は銀色の小さな箱から、厚い紙の切符を一枚取り出した。ぱちん、と小さな穴をあけて、窓口から差し出す。

 その瞬間、ジリリリリリリ、とベルが鳴った。

 恒一は切符を受け取り、改札を抜けた。

 ホームの奥、さっきまでなかった二番線に、短い電車が止まっていた。古い国電のような、くすんだ緑とクリーム色の二両編成だった。

 恒一が乗り込んだ瞬間、背後で扉が閉まった。

 「最終電車、奥墨田行きです」

 電車が動き出す。

 恒一はつり革を握ったまま、しばらく立っていた。

 落ち着け。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 これは夢だ。

 こんなものが、本当にあるわけがない。

 恒一はゆっくり窓際の席に座った。

 車内放送が鳴る。

 「次は、業平学園前。業平学園前です」

 目を閉じるつもりはなかった。

 次の駅を見ようと思った。電車がどこを走るのか、ちゃんと覚えていようと思った。

 けれど、昼から歩き回り、面接を受け、夜まで考え続けていた疲れが、急に体の奥から上がってきた。

 切符をなくさないように、右手のなかで強く握る。

 ガタン、ゴトン。

 ガタン、ゴトン。

 窓の外の光が、ゆっくり揺れ始めた。

 まぶたは、思ったより重かった。

 「まもなく……」

 再び車内放送が鳴った。

 けれど、その先は聞き取れなかった。

 目を開けることはできなかった。

 世界が、ふっと暗くなった。

 顔に、強い光が当たっていた。

 恒一は目を開けた。

 最初に見えたのは、青い空だった。次に、電線。古い家の二階。知らない窓。

 体を起こすと、すぐそばに細い路地が伸びていた。朝の太陽に照らされたアスファルトが、もうじんわりと熱を持ちはじめている。

 恒一は道端に寝ていた。

 電車はどこにもなかった。

 ホームも、レールも、見えなかった。

 遠くで、商店のシャッターが上がる音がした。自転車に乗った子どもが一人、路地の奥を走っていく。どこにでもある朝の町だった。

 けれど、恒一はこの景色を知らなかった。

 ポケットからスマホを取り出す。画面には、午前七時すぎと表示されていた。地図を開き、現在地を確かめる。

 京島。

 恒一はしばらく、その文字を見つめた。

 そして右手を開いた。

 汗で少しやわらかくなった切符が、手のひらに残っていた。

 隅田河鉄道 百九十円。

 小さな紙片だけが、夜の出来事を、まだ手のひらにつないでいた。

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