【連載】隅田河鉄道 第二話「手のひらの切符」
作:及川博勝
「手のひらの切符」
翌日、恒一は昨夜、汽笛が聞こえた方へ歩いてみた。
業平のあたりだった。
押上からスカイツリーを横目に歩き、細い道をいくつか曲がる。昨夜、古川荘の窓から見たとき、音はたしかにこちらから流れてきた気がした。
けれど、昼の町は何の変哲もなかった。
車が通り、自転車が通り、配送のトラックが路地の角で少しだけ立ち往生している。
この辺……かな。
恒一は業平公園まで来て、ベンチに腰を下ろした。
住宅地のなかにある公園だった。木々の葉が、昼の風にかすかに揺れている。遊具のそばでは、幼い子どもが母親のそばで遊んでいた。向かいには業平小学校の塀が見えた。
汽笛の聞こえるような場所には、とても見えなかった。
ふと、公園の隅に説明板があるのに気づいた。
王貞治。
墨田区で生まれた少年が、この公園で白い球を追いかけていたことが書かれていた。恒一はその前に立ち、しばらく文字を眺めた。
ここで野球をしていた少年が、やがて誰もが知る選手になった。
そんな当たり前のことが、少しだけ不思議に思えた。
この町には、昔のことが、案外そのまま残っているのかもしれない。
けれど、昨夜の汽笛につながるものは、何ひとつ見つからなかった。
恒一は諦めて、古川荘へ戻った。
午後は、アルバイトの面接だった。
駅前のカフェで、店長らしい男と向かい合い、履歴書に書いた自分の名前をもう一度確認された。いつから働けるか。週に何日入れるか。接客の経験はあるか。
恒一は、できるだけ普通に答えた。
昨夜、蒸気機関車の汽笛を聞いたことも、昼間、存在しない線路を探していたことも、もちろん話さなかった。
面接は、思っていたよりあっさり終わった。
帰り道、店長から「来週、連絡します」と言われた。採用なのか、不採用なのか、よく分からない言い方だった。
部屋に戻り、コンビニの弁当を食べた。
夜になっても、汽笛のことが頭から離れなかった。
結局、十時を過ぎたころ、恒一はまた業平へ向かった。
夜の十時三十分。
恒一は、業平公園と業平小学校のあいだにある一方通行の道に立っていた。

一方通行にしては、少し広い道路だった。昼間は自転車や車が抜けていく、ごく普通の道にしか見えなかった。
人影はない。
公園の木々も、小学校の塀も、街灯の下で静かだった。
道路の向こうから、一台の車が曲がってきた。ヘッドライトが細い道を白くなぞり、恒一の前をゆっくり通り過ぎていく。車が角を曲がって消えると、あたりはまた静かになった。
そのとき、どこからか小さな声が聞こえた。
最初は、近所のテレビの音かと思った。
恒一は目を閉じ、耳を澄ませた。
「まもなく、電車がまいります」
え?
恒一は勢いよく目を開けた。
息を止めた。
「駅……?」
アスファルトの道は、いつのまにか低いホームになっていた。公園側には、古びた駅名標が立っていた。
新なりひら。
ひらがなで書かれたその字が、夜のなかで白く浮かんでいた。
腕時計を見ると、二十二時四十五分だった。
遠くで、レールを踏む音がした。
ガタン、ゴトン。
昨夜聞いた重たい響きとは違う。もっと軽く、けれど古い音だった。やがて道の奥から、丸いヘッドライトが近づいてきた。
先頭にいたのは、濃い茶色の電気機関車だった。
「EF58……」
鉄道に詳しいわけではない。それでも、どこかで写真を見た記憶があった。
屋根から伸びたパンタグラフが、見えない架線に触れている。その後ろに、ぶどう色の客車が三両、静かに連なっていた。先頭の正面には、赤いヘッドマークがついている。
ツツジ。
白い文字が、そう読めた。
「白線の内側にお下がりください」
さっきの声より、少し大きなアナウンスが響く。
列車は、道路だった場所へごく当たり前に入ってきた。
ブレーキの音がして、恒一の前で止まる。
ドアが開いた。
客は数人だけだった。スーツ姿の男、買い物袋を下げた女、制服のまま眠そうな高校生。誰も驚いた様子を見せず、ホームを降りると、さっきまで道路だった方へ歩いていく。そして角を曲がった瞬間、夜の町に溶けるように見えなくなった。
最後に、一人の男が降りてきた。
五十代くらいだろうか。くたびれた紺色のシャツに、少し大きな鞄を提げている。顔は酒で赤く、足取りは頼りなかった。
恒一は、気がつくと男に声をかけていた。
「すみません」
男が振り返った。
「これ、いや、ここ……な、何ですか」
言葉がうまく出てこなかった。
「いや、なんていうか……」
男は少しだけ眉をひそめ、それから不思議そうに笑った。
「何って。駅でしょうよ」
「駅」
「切符なら、あっちだよ」
男は、ホームの端を、顎で指した。
「いや、そういうことじゃなくて」
恒一が言いかけたとき、再びアナウンスが流れた。
「まもなく二番線より、各駅停車、奥墨田行きが発車します」
その声を聞いた瞬間、恒一の体が勝手に動いた。
駅とは思えなかった。
何が起きているのか、まったく分からなかった。
それでも、行かなければならない気がした。
改札の小さな窓には、年配の駅員が座っていた。紺色の制服を着て、古い時刻表のようなものを読んでいる。恒一が近づくと、駅員は顔を上げた。
「どちらまで」
恒一は一瞬、答えに詰まった。
「ええと……きょ、京島まで」
咄嗟に、知っている地名を口にしていた。
駅員はうなずいた。
「百九十円ね」
恒一は財布から硬貨を出した。差し出す手が、少し震えていた。
駅員は銀色の小さな箱から、厚い紙の切符を一枚取り出した。ぱちん、と小さな穴をあけて、窓口から差し出す。
その瞬間、ジリリリリリリ、とベルが鳴った。
恒一は切符を受け取り、改札を抜けた。
ホームの奥、さっきまでなかった二番線に、短い電車が止まっていた。古い国電のような、くすんだ緑とクリーム色の二両編成だった。
恒一が乗り込んだ瞬間、背後で扉が閉まった。
「最終電車、奥墨田行きです」
電車が動き出す。
恒一はつり革を握ったまま、しばらく立っていた。
落ち着け。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。
これは夢だ。
こんなものが、本当にあるわけがない。
恒一はゆっくり窓際の席に座った。
車内放送が鳴る。
「次は、業平学園前。業平学園前です」
目を閉じるつもりはなかった。
次の駅を見ようと思った。電車がどこを走るのか、ちゃんと覚えていようと思った。
けれど、昼から歩き回り、面接を受け、夜まで考え続けていた疲れが、急に体の奥から上がってきた。
切符をなくさないように、右手のなかで強く握る。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
窓の外の光が、ゆっくり揺れ始めた。
まぶたは、思ったより重かった。
「まもなく……」
再び車内放送が鳴った。
けれど、その先は聞き取れなかった。
目を開けることはできなかった。
世界が、ふっと暗くなった。
顔に、強い光が当たっていた。
恒一は目を開けた。
最初に見えたのは、青い空だった。次に、電線。古い家の二階。知らない窓。
体を起こすと、すぐそばに細い路地が伸びていた。朝の太陽に照らされたアスファルトが、もうじんわりと熱を持ちはじめている。
恒一は道端に寝ていた。
電車はどこにもなかった。
ホームも、レールも、見えなかった。
遠くで、商店のシャッターが上がる音がした。自転車に乗った子どもが一人、路地の奥を走っていく。どこにでもある朝の町だった。
けれど、恒一はこの景色を知らなかった。
ポケットからスマホを取り出す。画面には、午前七時すぎと表示されていた。地図を開き、現在地を確かめる。
京島。
恒一はしばらく、その文字を見つめた。
そして右手を開いた。
汗で少しやわらかくなった切符が、手のひらに残っていた。
隅田河鉄道 百九十円。
小さな紙片だけが、夜の出来事を、まだ手のひらにつないでいた。






