【新連載】隅田河鉄道 第一話
作:及川博勝
「星の名前」
森川恒一が押上に引っ越してきたのは、8月のはじめだった。
大学を卒業して五か月。就職はしなかった。正確に言えば、就職活動を途中でやめた。スーツを着て、同じようなビルに入り、同じような質問に答えるたびに、自分がだんだん薄くなっていくような気がしたからだ。
フリーライターになりたい。
夢を追っている。と言えば様になるが、ファッションとして着飾っている「夢」という言葉といったところか。
実際にはまだ一本の原稿も書いていない。名刺もない。仕事のあてもない。あるわけがない。
あるのは、学生時代に集めた古い鉄道雑誌と、昭和の町並みを特集した本が数冊。それから、親に言えない程度の不安だった。
恒一は千葉のベッドタウンで生まれ育った。駅前には大きなスーパーがあり、ロータリーには同じ形のバスが並び、どこまで行っても新しいマンションと駐車場が続いていた。便利ではあった。けれど、そこには何かが足りなかった。
子どものころから、古い駅舎や短いホーム、踏切のある風景が好きだった。特別に詳しいわけではない。車両の形式を全部言えるほどではないし、時刻表を暗記するような熱心さもなかった。ただ、短い編成の電車が町のすき間を抜けていく光景を見ると、胸の奥が少しだけざわついた。
昭和の下町で暮らしてみたい。
その思いつきだけで、恒一は墨田区を選んだ。
不動産屋に案内された古川荘は、押上の住宅街にある木造2階建ての古いアパートだった。外壁はところどころ色が褪せ、階段は上るたびに小さく鳴った。部屋は2階の奥、六畳一間。台所は狭く、風呂は小さく、エアコンは少し頼りなかった。
けれど、窓を開けると、すぐ近くを東武亀戸線が走っていた。
内見の最中、踏切が鳴った。
カンカンカンカン。
しばらくして、銀色の車体が、2両編成でガタンゴトンと音を立てて通り過ぎた。窓ガラスがわずかに震えた。不動産屋の男は申し訳なさそうに言った。
「音、けっこうしますよ。気になる方は気になります」
恒一は窓の外を見たまま答えた。
「ここにします」
男は少し驚いた顔をした。
「本当に大丈夫ですか」
「大丈夫です。むしろ、いいです」
その一言で、古川荘二〇三号室は恒一の部屋になった。
引っ越してきてから一週間、恒一は思っていたより何もしていなかった。朝起きて、コンビニでパンを買い、部屋でスマホを眺める。求人サイトを開いては閉じ、ライター募集の記事を読んでは、自分にはまだ早い気がして画面を伏せる。夕方になると近所を歩いた。
押上は、恒一が想像していた下町とは少し違っていた。
もっと古い長屋が連なり、軒先には植木鉢が並び、路地の奥から煮物の匂いがしてくるような町を想像していた。けれど実際には、新しい建売住宅も多く、駅前にはチェーン店があり、観光客はみな「あの大きな塔」を目指して歩いていた。
それでも、角を曲がると急に古い家が残っていたり、錆びた看板のある店が眠っていたりした。新しいものと古いものが、整理されないまま同じ道に並んでいる。そのちぐはぐさが、恒一には少し面白かった。
ある日の夕方、恒一は「あの大きな塔」を見に行くことにした。
正直に言えば、興味はなかった。けれど、押上に住み始めた以上、一度くらいは真下から見上げておくべきだろうと思った。
夏の空はまだ明るかった。昼間の太陽がアスファルトに残り、歩くたびに足元からぬるい空気が上がってくる。路地を抜けると、突然、視界の上半分を塔が占めた。
恒一は立ち止まった。
大きい、というより、近すぎた。
写真で見ていたときは、ただの観光名所だった。けれど真下に立つと、それは町の一部というより、空から突き刺さった巨大な針のようだった。昭和の下町を探しに来たはずなのに、その町の真ん中には、未来みたいな塔が立っている。
「なんだこれ」
小さくつぶやいて、恒一は笑った。
そのまま歩いて、北十間川のそばまで出た。水面には夕方の光が揺れ、「あの大きな塔」の影が長く伸びていた。観光客の声が少し遠のき、川沿いのベンチには、誰かが残していった紙コップが置かれていた。
恒一はベンチに腰を下ろした。

風が少しだけ涼しかった。
スマホを取り出し、なんとなく検索窓に文字を打った。
「墨田 歴史」
検索結果には、隅田川のこと、向島のこと、業平のこと、寺島という古い地名のことが並んでいた。読み進めるうちに、恒一は自分がまだこの町のことを何も知らないのだと気づいた。
墨田区。
名前は知っている。「あの大きな塔」がある場所。下町。花火。相撲。町工場。そんな雑な言葉をいくつか持っているだけだった。
さらに検索していると、ふいに妙な文字が目に入った。
小惑星(1090)スミダ。
恒一は指を止めた。
「スミダ?」
画面を開く。
そこには、宇宙にある小惑星のひとつに「スミダ」という名前が付けられていると書かれていた。
その名前は、東京を流れる隅田川にちなんで付けられたものだった。
スミダという名前が地上だけでなく、空のどこかにも存在しているらしい。
恒一は顔を上げた。
目の前には北十間川。背後には観光客のざわめき。頭上には「あの大きな塔」。そして、そのさらに向こうに、まだ見えない星がある。
スミダという名前の星。
それは妙に不思議だった。
この町に引っ越してきた理由は、半分以上が勢いだった。昭和っぽい下町に住めば、何か書けるようになる気がした。古いアパートに住めば、自分も少しは物語の中の人間になれる気がした。
けれど、町は思ったより新しく、思ったより普通で、思ったより大きかった。
それなのに今、スマホの小さな画面の中で、スミダは宇宙まで伸びていた。
「変なの」
恒一はそう言った。
でも、画面を閉じることができなかった。
日が傾くにつれ、川面の色が青から灰色に変わっていった。「あの大きな塔」に灯りがともり、塔は少しずつ現実離れしていく。恒一はしばらく、小惑星スミダについて書かれた短い説明を読み返していた。
あの星まで行けたなら。
そんなことを一瞬考えて、すぐにばかばかしくなった。
腹が鳴った。
恒一はベンチから立ち上がり、古川荘へ戻った。
夜になると、部屋は思っていたより静かだった。
古い木造アパートだから、隣室の物音は聞こえる。誰かが階段を上れば、きしむ音がする。けれど、町全体は夜になると急に息をひそめる。昼間あれほど大きく見えた「あの大きな塔」も、窓の端に少しだけ光っているだけだった。
恒一は畳の上に寝転がり、扇風機の首振りを眺めていた。エアコンはつけていたが効きが悪く、部屋にはぬるい風が回っていた。
スマホには、さっき開いた小惑星の記事が残っていた。
小惑星スミダ。
何度見ても、少しおかしい。地名が空に浮かんでいる。それだけのことなのに、胸のどこかに小さな引っかかりが残っていた。
そのとき、踏切が鳴った。
カンカンカンカン。
恒一は画面を見たまま、視線だけを窓の方へ動かした。
「亀戸線が通過いたしまぁす」
もう慣れた音だった。
少しして、電車が通過した。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
二両編成の短い音が、部屋のすぐ外を横切っていく。窓ガラスが小さく震え、吊るしていたシャツがわずかに揺れた。音はすぐに遠ざかり、踏切の警報音も止まった。
静かになった。
扇風機の音だけが残った。
そのはずだった。
遠くで、何かが鳴った。
ポォーーーーーッ。
恒一は起き上がった。
今のは、電車の警笛ではなかった。
もっと低く、長く、湿った音だった。夜の空気を押し広げるような、古い映画の中で聞くような音。
「汽笛?」
口に出してから、自分で変だと思った。
東京の、しかも押上で、蒸気機関車の汽笛が聞こえるはずがない。
恒一は窓を開けた。
外は暗かった。亀戸線の線路はいつもの場所にあり、踏切の赤い灯りは消えている。遠くに「あの大きな塔」が見えた。その根元の方角、業平のあたりから、夜の風が流れてくる。
もう一度、鳴った。
ポォーーーーーッ。
今度はさっきより、少し近く感じた。
恒一の背中に、ぞわりとしたものが走った。
耳をすませる。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
線路の継ぎ目を重い車輪が踏むような音が、遠くから近づいてくる。亀戸線とは違う。二両編成の軽い音ではない。もっと重く、もっと古い。鉄と鉄が、夜の底でゆっくり噛み合うような音だった。
そのとき、風に混じって、かすかな匂いがした。
焦げたような、煙たいような匂い。
恒一は息を止めた。
石炭。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた。
あり得ない。
あり得ないのに、確かに聞こえる。
業平の方から、蒸気機関車の汽笛が聞こえる。
恒一は窓枠に手をかけたまま、暗い町を見つめていた。
昼間、北十間川のベンチで見つけた言葉が、頭の中に浮かんだ。
小惑星スミダ。
空にある、墨田の名前。
もう一度、遠くで汽笛が鳴った。
ポォーーーーーッ。
それはまるで、まだ知らない駅から届いた、夜行列車の合図のようだった。






