大事MANブラザーズ
立川俊之

【第1回】連載全4回

私の母は中央区の月島で生まれ、幼い頃に大黒柱である父親を失い、戦後間もない社会の混沌もあり、貧困を余儀なくされて育った。

その母の故郷も〝下町〟という意味では墨田区と相通ずるものがあると思う。

実際、母は月島の〝貧乏長屋〟で育った。

私が産まれたのは1966年。

高度経済成長期の真っ只中である。

出生地は埼玉県草加市にある松原団地という、当時、東アジアでは最も大きなマンモス団地だった(現在は老朽化に伴い、UR指定都市としてすべて建て替えられ、駅名も〝松原団地〟から〝独協大学前〟と改名されている)。

今でいう〝ニュータウン〟の象徴とも呼べるべき場所だったのだろう。

その団地内はインフラもそれなりに整っており、学校やスーパー、公園なども充実していた。

あまつさえ、当時では珍しいテニスコートなどもあった。

母と私とでは、生い立ちの背景にそれほどの違いがある。

しかし、この〝相違点〟は、決して文化的〝格差〟ではないということを次回から述べていきたいと思う。

【第2回】

前回は、私と私の母親との〝生い立ちの相違点〞について述べた。 私と母との年齢差は27歳である。

この差異をどう考えるかは、人それぞれだが、現在50代半ばに差し掛かった私としては、さほど大きな差ではないと思っている。

一般に〝今の人〞と言えば、若い人たちを指し、〝昔の人〞と言えば、老いた人たちを指す。

しかしながら、今の10代〜90代も(要は老若男女)生きている限りは、皆、〝今の人〞である。

換言すれば、今を生きている以上、年齢差は別にして〝今の人〞であることを否定出来ないのだ。

〝時間〞とは不可逆なものであり、〝老いる〞とは不可避なものである。

しかし、年齢差による価値観の違いこそあれ、それらを超えて年齢に関係なく、〝底通する何か〞は絶対に存在しているはずである。

少なくとも私は、その〝底通する何か〞を世代の異なる者同士が、語り合い、触れ合う機会をもっとたくさん作るべきだと思っている。

それは、大業に云えば、〝国力〞にさえ繋がるものだとも思っている。

【第3回】

前回は、世代的価値観を超えて、年齢差に関わらず、〝底通する何か〟を老若男女がもっと議論したり、触れ合ったりする機会を増やすべきだという話をした。

それは、今後ある程度予見でき得る〝ディストピア〟を軽減させる大事な要素であると思うし、少なくとも〝沈みゆく船〟の補完として、大きな役割を果たすものだと信じているからだ。

その関係性を構築するためには、若い人たちの方は、先達の話に真摯に耳を傾ける。

そして、先達である、他人より先に道を歩いてきた人間たちの方は、後から来る若者のために道を空けて待っておく。

それが、それぞれせめてもの〝礼儀〟だと思っている。

相互理解を深めるには、世代的価値観や利害のことばかり捲し立てても、埒は明かない。

〝利便性の追求〟と〝昔話〟では、ハナから同じテーブルについていないのだから。

【第4回】

このコラムも、これが最後になった。こんな拙い文章を最後まで読んで頂いた方には、心からお礼を申し上げたい。

さて、最後のコラムは、私が現在、プロデュースさせてもらっている若い女性グループについて触れながら、帰結にしたいと思う。

私と彼女たちは、よく話し合いをする。

グループのコンセプトが、〝昔の人には懐かしく、今の人には新しい〞というものなので、必然的にそういう場面が多くなる。

その際、こちらの意図をきちんと明示しなければならないし、彼らの話に真摯に耳を傾けなければならない。

私は、このグループの曲を作り上げるときに大事にしていることがある。

それは、洋邦を問わず、私の幼少期、思春期に聴いてきたものに敬意を払うということである。

我々、日本人には、特に〝歌謡性〞は大事だ。〝カッコいい〞だけじゃ意味がないのだ。

私は、先達たちの曲に敬意を払いながら、新しい人たちと、日々、音楽を共有させてもらっていることに些かの照れもなく、感謝するばかりである。

立川俊之(たちかわとしゆき)プロフィール

大事MANブラザーズ立川俊之

1991年に大事MANブラザーズバンドとしてメジャーデビューし、その年に発売したシングル「それが大事」が通算160万枚の大ヒットとなる。
2016年「それが大事」のアンサーソング「神様は手を抜かない」、新ヴァージョンの「それが大事2016」を収録したデビュー25周年記念アルバム「喜楽人生」をavex traxより発売。
現在、ソロ活動の他、さまざまなジャンルの楽曲提供を行っている。
2021年デビュー30周年を迎えた。
立川俊之オフィシャルサイト